30 ブラジルの日本食事情

           三浦ファミリーとチズちゃん 1969

1960年代は、ブラジルで日本食を手に入れるのは至難の業。唯一の日系家族は三浦さん。5人家族で両親と子供3人。長女はジュリア、チズちゃんとは姉妹のようにしていた。ジュリアのお母さんはどんな日本食でも作ってくれた。ブラジルには梅がないので、別な野菜を使って梅干しや蒲鉾までも作っていた。

三浦さんのお母さんは、子供の頃家族とアマゾンに入植、両親をマラリアで失った苦労人。一方、お父さんは技術移民で日本との貿易で財をなしていた。ブラジルからは海老を輸出、日本からはYKKのファスナーを輸入していた。その頃ブラジルのファスナーは品質が悪く、日本製は引っ張りだこだった。

正月になると日本食をサンパウロから取り寄せていた。元旦には領事館に在住の日本人が招待され、会食するのが一番の楽しみだった。すべての材料が日本から直送され、ブラジルで手に入る日本食とは味が違う。今では何処に行っても日本食は手に入るようになったけど、50年前は本当に苦労していた。三毛猫タヌー

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