1917-1920年 古径述懐

      梶田半古塾新年会 左端が18歳の土牛、最前列中央が小林古径、
          髭をはやした人物が梶田半古 東京牛込 1907

1917年、土牛は、師・梶田半古さんが亡くなって、翌年から同熟生の金子光嶺さんと大森の新井宿に家を借りて共同生活を始めたんだ。近くに塾頭だった小林古径先生のお宅があったからだよ。

金子光嶺さんは1年程して急病で亡くなられたんだ。優秀で若い絵描きさんだったのにほんとうに残念。1920年、大森・馬込に古径先生の画室が完成した。土牛は留守番役を兼ね、画室で寝泊まりするようになったんだ。現在、画室は設計図を基に復元され上越市の小林古径記念美術館の一部になっているよ。

           小林古径記念美術館 窪田幸子氏撮影

古径先生は、新井宿の本宅から画室に毎日通っていた。土牛は、留守番役を兼ねて絵の勉強をさせてもらった。画室は、茅ぶきの大きな農家をそのまま残し、部屋の間造りだけを古径風の好みに変えたお洒落な画室だった。

15坪ほどの土間の玄関を上がると、次の10畳が応接間で、その奥が画室だった。玄関のかたわらの古びた机の上には、古風な烏籠が置いてあった。籠には一羽の山バトがいて、ときおり周囲の静寂を破って、ポッ、ポーッと啼いたんだよ。

当時の馬込は静寂そのものだった。隣に百姓家一軒と近くに馬込萬福寺という寺があるだけで、あとは林や野原や畑が続いていた。古径先生のところも500坪ほどで垣根越しには何百本もの柿の木があり、見事な眺めだったんだって。

        小林古径記念美術館画室(復元) 窪田幸子氏撮影

土牛は心から尊敬する古径先生と絵を描けるのが、この上ない喜びだった。先生の精神の高さと絵に対する厳しさが身にしみてわかった。馬込の画室にはごく近しい人がみえるだけで、1日中ほとんど先生と土牛だけ、二人とも無口だったから、静かに一日が終わったんだよ。

古径先生が10日間紀州へ旅された時なんか、土牛はご用聞きとひと言ふた言話すだけで、誰とも口をきかなかった。画道に集中していたから寂しくなかったんだね。

画室のある辺りは蛇が多いことで有名で天井から大きな蛇がバサリと落ちてくることがあった。雨戸を開けると戸袋で眠っていた蛇が驚いて座敷に飛び出すこともあった。ヤマカガシという蛇で人間に害を及ぼす種類ではなかったみたいだよ。

古径先生の話を伺えるは、昼食時の一時間。いつも食パンを二切れ持ってこられ、10畳のいろりで焼いて食べられた。土牛もいろりを囲んで、半きんの食パンを食べるのが習慣だった。絵の批評は細かい事には一切触れず、高い見地から全体について話されていたよ。

                  奧村土牛

古径先生は、ああしろこうしろと口で言う代わりに、古典の名画複製を黙って見せてくれたんだ。源氏物語や信貴山縁起などの絵巻から、中国・宋元の名画、レオナルド・ダ・ビンチやラファエロなどのイタリア・ルネッサンスの作品まで。土牛は、技術だけでなく幅広い美学も学んだ。奧村土牛研究員クロ

東京都大田区南馬込1-59-21、ここに邸宅とアトリエがありました。いまは、古径公園になっているようです。古径先生はこの年、比叡山延暦寺より伝教大師絵伝「十講始立」を頼まれて前田青邨と比叡山に行き、伝教大師絵伝の参考品を見られたとのことで、10日間紀州へ旅とはその事と思われます。 翌年、絵は完成しました牛の歩みグループ学芸員・窪田幸子

学芸員・窪田幸子さんの報告を受け、『本(Twitterネーム )』さんが馬込の小林古径宅跡を取材して下さいました。以下は『本』さんからの記事です。

         Kokei park 古径公園 『本』氏撮影 Nov.29 2020

「馬込の小林古径宅跡に行ってきました。今の公園と児童館の辺りだそうですね。フェンス隔てた左側の土地が更地になっていたので、また、なにか建つのかもしれません。 ゆるい坂の上に、萬福寺、今はピンク色の室生犀星宅跡の室生マンションが見えます。 現在の雰囲気だけでも感じていただければよいのですが。 2冊の本に古径氏の名前の見えるページも送らせていただきます。 終わりの地図は東京時層地図、昭和戦前期のものです。744の辺りが古径宅、763が犀星宅です」『本』さんより

   Kokei park Commentary board 古径解説板 『本』氏撮影 Nov.29 2020

古径公園に解説板がある。そこには「小林古径は大正四年、大森新井宿に移ってきました。この時既に日本画家として名を成しており、大正八年馬込に画室をつくると自宅を馬込に移す(昭和九年)まで画室通いを続けます。古径の自宅は今の児童公園の位置に、画室と隣接して建てられました。庭には孔雀が飼ってあり、近くに住む室生犀星が見物がてら立ち寄ったりしてお互い交流がありました。(小林古径保存会)」と記されている。

近藤富枝著 講談社刊『文壇資料 文学地図』には、この界隈の様子が記されている。
「それかあらぬか文士たちの大量移住がはじまる前に、大森から馬込にかけて美術家たちの住むのが目立っている。新井宿に住んだ川端龍子を別格とし、馬込には小林古径、彫刻家で、酔うと幽霊の絵をかきちらし奇人の風格のあった佐藤朝山(のちの玄々)、洋画家でバラが得意だった真野紀太郎、関口隆嗣、田沢八甲、青山熊二、長谷川春子らがいた。」

「犀星は家を建てるため、早速土地さがしをはじめ、馬込東三丁目七六三の蕪畑を百五十坪借りた。うしろは禅刹万福寺、前は藪地であった。ここらは字名を久保といった。ここなら土地は高いし、空気も澄み、子どもたちの健康にはもってこいの場所に思えた。近くに小林古径のアトリエがあり、放しがいにした孔雀がクウクウと鳴くのが、のどかな田園の気分を深めていた。」

「大森にきたのは明治四十三年で、新井宿三丁目一三五二に住まいを定めている。従って馬込村民ではない。大正のころ大森には『大森の丘の会』という文化人グループの集いがあり、小林古径、川端龍子、伊東深水、渡辺文子、真野紀太郎、長谷川潔、日夏耿之介などに伍して片山広子も加わっている。いわば大森文化人の草わけ的存在である。」

      馬込付近地図(前掲書)と東京時層地図、昭和戦前期のもの

「犀星家とは道をへだてて近い小林古径家も縮小され、おもかげは薄れつつある。孔雀がクウクウとないたのどかな馬込は消えた。そして犀星や古径のようなタイプの作家がこれから再び日本に誕生することはあるまいと思う。天日にわかにくらくなる思いである。」

      馬込文士村 小林古径レリーフ 長谷川古風氏撮影 Oct.1 2020

『本』さん、長谷川古風さん、窪田幸子さん、ご協力有難うございました。

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