アヴィニョンからアルルに向かう県道沿いにグラヴゾンがあり、そこにオーギュスト・シャボー美術館がある。画家オーギュスト・シャボーは日本ではあまり知られていないが、ヨーロッパではピカソ、マチィスと並び称される存在だという。美術館は小じんまりとした3階建だが、作品は生活感に溢れたものばかりだ。
シャボーは1882年10月3日、南仏のニームで生まれた。1896年からアヴィニョンのエコール・デ・ボザールに学び、ピエール・グリポーラに師事した。1899年17歳の時にパリ・セーヌ川沿いにアトリエを構え、アカデミー・カリエール・ジュリアンで制作に励む。サロン・ドートンヌにも出展を始めた。そのアカデミーに出入りしていたマティスやピュイ、デュランと出会い、後にフォービズム運動を展開することになる。
父の支援で優雅なパリ生活を送るシャボーであったが、1901年に父が他界、一時帰郷を余儀なくされる。その頃フランスは大不況で、ワイン作りを糧としていた一家の生計も切羽詰まった状況に陥っていた。シャボーは家計を助けるため、航海士のアシスタントとしてジブラルタル、ダカール、ラスパルマス、セネガルなどアフリカ西海岸を運航する船会社に数カ月間ではあったが就職する。
だが、シャボーの画道への執念は消えた訳ではなかった。父の逝去で帰郷した際にも、暇を見つけては肉屋の包装紙にクレヨンで自分の生活風景を絵にしていた。航海中も詩、旅行記と共に、折々のスケッチを描いた。航海中浸水事故が発生、無事生還した船乗りの多くは関係者に「バケツで何杯もの水を船からくみ出した」と恐怖体験を語ったが、シャボーは「絵を描くに必要な水分を筆が吸収したので、多少は沈没を防ぐのに役立ったかも知れない」と危機に遭遇しても平然と絵画にこだわり続けた逸話も残っている。この体験記は「画集・アフリカの思い出」と題して出版されている。
また、彼は徴兵され1903年から3年間チュニジアのビゼールへ行き、1914年の第一次世界大戦時にも再度入隊している。兵隊になるのは不本意だったが、先々でデッサンが出来るのを楽しみにしていた。戦争中には、毒ガスに襲われながらも塹壕でデッサンを描き、軍隊で起こった事件や風俗などの貴重な記録資料も残している。その成果が評価され、退役後に国から勲章を授与されている。
1921年にグラヴゾンの村娘バランタン・スジーニと結婚、四男四女をもうけてムサン村で暮らした。以後、1955年5月23日に亡くなるまでの約40年間、グラヴゾンのアトリエに通いながら制作に没頭した。1919年からシャボーは村人、風景、農民、牛馬などをモチーフに選び、グラヴゾンに閉じこもるようになった。村人は彼を「グラヴゾンの仙人」と呼んだ。
1928年に母が逝去し、家業を継ぐことになる。ビジネスに疎い彼にとっては歓迎するべきことではなかったが、経済的なゆとりも生まれ、創作に弾みがつくきっかけともなった。とにもかくにも、これほど絵が好きだった画家はいなかった。
エコール・ド・パリの拠点であったモンパルナスは、多国籍文化が混合して新しい流れを築いた。同時にプロヴァンス地方も、歴史的に異文化を受け入れる土壌が芸術家を育てたのである。
文と写真:奥村森
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