10 Beatrice Douillet ベアトリス・ドゥイェ Ⅱ

ギャラリスト・窪田幸子さん

翌年2012年初旬、杉並区松庵で古い蔵をリフォームしてギャラリーを始めたばかりの窪田幸子さんにベアトリス展を開催できないかと相談した。窪田さんは快諾してくれた。会期は2012年11月から1か月間という長期開催が決まった。フランスでは当たり前であるが、日本では珍しい長期展となった。

窪田幸子さんとの出会いは20数年前、写真講座の講師と受講生から始まった。もの静かな農業家の彼女が「ギャラリーを開設するので、作品を撮る技術を学びたい」と言うのだ。失礼ながら、こんなに社交性のない人にギャラリー経営なんて出来るのだろうかと心配した。

幸子さんが教室を訪れてから約2年後『ギャラリー蒼』の展覧会案内が届いた。チズちゃんこと吉田千津子と一緒に会場を訪ねた。するとオーナーらしき熟年女性がいた。幸子さんを知らない吉田はオーナーだと思い丁寧に挨拶をした。だが、僕は「したり顔で話す怪しい人だなあ」と思った。

幸子さんはどこにいるんだろう。するとギャラリーの隅っこにひっそりと消え入るようにたたずんでいた。気がつき挨拶すると、申し訳なさそうに顔をこわばらせ頭を下げた。しばらくすると白髪の初老の女性が現れ、幸子さんは「母です」と紹介した。僕が挨拶しても何とも素っ気ない。

それから暫くしたある日、幸子さんからメールが届いた。「広報の指導をして欲しい」と。企業勤務していた時代に広報担当をした経験を生かして、当時、ホームページに業務のひとつとしてPRを教えていたからだ。再び幸子さんの蔵のギャラリーを訪れることになった。

広報はニューズレターと呼ばれる発信資料をテレビ、ラジオ、新聞、雑誌などに配信して記事にしてもらうのが仕事だ。今日のようにSNSが盛んではなかったから、資料作成の文筆力とコミュニケーション能力が重要である。その上で何より大切なのがブレない確固たる経営理念だ。

コミュニケーション苦手の幸子さんなので、どうなることかと心配していたが、文筆力が達者で、びっくりするほど筋の通った文章を構成できる能力を備えていた。当時の幸子さんは、烏骨鶏卵とギャラリーの催事案内をPRしたいと希望していた。その目的は直ぐに達成した。

窪田家は、15代続く旧家で近所の人なら誰でも知っている。それもあってコツコツと行うPR活動は相乗効果となり、幸子さんの東京烏骨鶏と後藤もみじの卵は杉並区の名物となり、講演の依頼までも来るようになった。また、大正時代の蔵で開かれる展覧会やコンサートはいつも大盛況だった。

順風満帆に見えた幸子さんの事業だったが、窪田家財産を狙う悪徳美術商の魔の手が近づき、更に信用できるはずの家族が、幸子さんの脚光に妬んでの嫌がらせがエスカレートし始めた。広報の基本はブレない経営理念。それが脅かされる事態に陥った。

幸子さんに絡んだ美術商は、詐欺商法をする人として悪い噂が飛び交う人物だった。その頃、僕は膨大な美術品相続税に苦しみ、文春ネスコから『相続税が払えない』という著書を出版したばかり。美術業界の裏側を掲載した。悪徳を画策する者には耳の痛い内容だった。

著書は美術業界、弁護士、司法書士等に読まれていた。問題の美術商も噂に題名ぐらいは聞いていただろう。幸子さんに「広報の指導をあの奧村から受けている」と彼に伝えるよう指示した。間もなくして幸子さんの面前からその男は姿を消した。だが、家族の問題は複雑で未解決のままだった。

当時の僕は、カルチャーセンター写真講師をしていた。フィルムからデジタルへの過渡期。アナログ技術は撮影や暗室処理、デジタル技術はパソコンを使った画像処理などを指導していた。ところが父の死によって相続税が発生、家庭内問題もあって、事務所兼スタジオを手放さねばならなくなった。

同級生のスタジオを写真教室会場として借りた事もあったが、人間関係がうまくいかず長続きしなかった。もう、カルチャーの仕事はやめようと決心したその時、幸子さんから「家の空いているマンションで開講しないか」と声を掛けてもらった。

幸子さんが提供してくれたマンションはスタジオではなく普通の住まいなので、暗室として使う時は暗幕を張り部屋を真っ暗にした。不便ではあったが有難かった。相続問題で経済的や人間関係で窮地に追い込まれていた僕は、感謝の気もちでいっぱいだった。

一方、幸子さんは身勝手な家族に振り回され、まるでNHK朝ドラ『おしん』を見ているようだった。彼女は幼児期から、そういう環境が普通だと思っていたかも知れないが、妹婿が入籍してから、幸子さんが親しくする人に嫌がらせをして孤立させ、精神的虐待を加えて自分の従属者にしようとした。

幸子さんの辛い人生が、相続時に末っ子というだけで兄弟夫婦から受けた仕打ち、這いつくばって暮らした日々と重なった。大地主の娘と知名度ある画家の息子、立場は違ってみえるが、世間の羨望の視線、後にストレスで白血病と重度の癌を患った点も共通していた。我がことのように感じられた。

幸子さんとの交流が深まるにつれ、同じ美大に通う同窓生であることもわかった。彼女は、子どもの頃から絵が好きだったこともあろうが、唯一、自分の意志を自由に表現できる場だったのではないだろうか。僕にとっても創作していると、自分の世界に没頭できた。

文と写真:奧村森

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