13 Beatrice Douillet ベアトリス・ドゥイェ Ⅴ

ベアトリス初来日

ベアトリスが来日、届いた作品を我々で展示したが、ベアトリスの手が入ると見違えるほど洗練されるディスプレーになった。いよいよ個展が始まる。毎日沢山の来場者が会場を訪れ大盛況。とりわけプロフェッショナルに人気が高い。みんなが「よい作品」という割には、売れゆきが伸びない。

展覧会は『ベアトリス・ドゥイエのガードローブ展』と命名、彼女が集めた思い出のある家族の古着をカットして、幼少期から大人に至るまでの気もちの変化を表現したものである。ファッション界で着物などの古着を今風の服と組み合わせるのが流行っているが、まさに、その先駆けだったのである。

ベアトリスは、使わなくなった古着やボタンなどに新たな命を与えて創作する。今ではエコアートとして認められるようになったが、当時は『不用品の再利用』としか思われず売れなかったのだ。色もセンスも抜群、フランスで一流評価なされているのに。投機的価値を優先する日本人の心がみえた。

ベアトリスを評価できるのは絵、立体、裁縫、デザインを幅広くこなす創作家でありながら、それぞれに一流技術を有しているところだ。この種の作家は、マルチアーティストと呼ばれ流行を追う軽々しいイメージがつきまとうが、彼女は優れた色彩感覚を備え、かつ丁寧さもあり独創的である。

展覧会期間中、ベアトリスは幸子さんの事務所兼自宅に滞在した。三部屋あるので我々も応援に行くと、そこで泊まり食事をしながら、たわいもない話に華を咲かせた。彼女の風呂に入る時間が異常に短いのに驚くと、身振り手振りしながら「シンカンセーン、ひゅーん」とおどけて見せた。

ベアトリスは展覧会の会期後半、せっかく日本に来たかのだから関西、そして我が家のある宝塚を訪ねたいという。フランスガイドブックでは、高野山や伏見稲荷は超有名な観光地になっているからだ。勿論、我々も大賛成、ベアトリス不在の間、交代で会場の留守番をすることにした。

フランスガイドブックに名所として、新宿ゴールデン街と二丁目界隈が掲載されていた。ベアトリスは仕事が終わったら、夜一人で出掛けると言う。この時ばかりは猛反対、危険だからやめるよう未熟なイフランス語と英語で2時間かけて説得した。チズちゃんが留守だったので通訳なし、大変だった。

ベアトリスは自由を束縛する発言に不満だったが、本当に自分を心配してくれているとわかり、「D’accord, papa(わかったよ、おとうさん)」と言って笑顔を見せた。これを機に絆がより深くなった気がした。彼女は、僕を『Yuki』と呼んだ。本名の『カツユキ』がフランス語では発音しにくいからだ。

ベアトリスは、幸子さんを『マドモアゼル・エート』と茶化した。会話で「え~と」と言うのが口癖だから。チズちゃんを『Susie(スージー)』と呼ぶ。アメリカに住んでいた時、『Chizuko』ではアメリカ人は発音できないので、『Susie』という愛称を勝手につけられてしまった。

ベアトリスは、宝塚のチズちゃんの家を訪ねた。僕がいれば車でドライブすることもできたが、彼女のかわりに展覧会の留守番をしているからどうしようもない。チズちゃんは、ベアトリスを神戸三宮に案内した。ポートタワーにのぼり、神戸の街を一望、南京町で中華料理を食べた。

展覧会も終盤を迎え、やっと作品が売れ始めた。だが、ベアトリスの飛行機代など経費を埋める程ではない。我々もポケットマネーをはたいて援護したが、気に入った作品なので義理立ての気持ちはなかった。今にして思うと、彼女の作品は、日本においては時代の先端を進み過ぎていたのかも知れない。

ベアトリスのモットーは倹約。貯めた資金は、すべて個展と旅行にあてるという暮らしぶり。衣服はほとんどフリーマーケットで購入、それを自分好みの服にリフォームする。自分独特の世界、たった一枚しかない服を創る。常時、数枚の洋服しか持っていない。生活もアーティスティック。

展覧会も終了。親しい仲間が集まり、ベアトリスのお別れパーティをした。彼女は満足してフランスに戻った。

文と写真:奧村森

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