2 モンマルトルが育てたユトリロ

     Place du Tertre & Rue Ravignan テルトル広場とラビニャン通り 

モーリス・ユトリロの住んでいたラヴィニャン通りを訪れようと、地下鉄を降りて階段を上がり、アールヌーヴォー時代に創られたギマールのアーチを潜る。駅前のベンチには昼間から飲んだくれて寝ているホームレスが目に入った。

モーリス・ユトリロは、母、シュザンヌ・ヴァラドンの私生児として1883年パリに生まれた。ユトリロの姓は、美術評論家ミゲル・ユトリーリョが、彼を養子として籍に入れたことに由来している。

不幸な出生遍歴からだろうか、若い頃から異常な飲酒癖が災いして、1900年にはアルコール依存症で入院を余儀なくされた。医師は、彼の母に「熱中するものがあれば、酒量が減るのでは」と絵を描くように勧めた。しかし、飲酒癖は一向に治らず入退院を繰り返した。

それでなくとも、独学で絵を描きアカデミックな教育を受けていないユトリロは画壇から疎外された上に飲んだくれる日々を送り、益々孤立化していった。そんな気持ちを表現したのか、哀愁に満ちたパリの街角などモンマルトルのアトリエから見える身近なモチーフを数多く描くようになっていった。

パリ芸術の中心がモンパルナスに移ってからも、モンマルトルに住んで秀作を描き続けたのである。ユトリロが頻繁に題材として描いたタルトル広場やラヴィニャン通り近辺は、夕暮れ時ともなると多くの観光客で賑わう。しかし、人気が無くなると、今でも画家の心情を伺える光景が其処かしこに存在する。

孤独な人間が呼吸することのみ許される容赦なき街。その地獄から不死鳥のごとく這い上がった強かさ。亜流から本流画家に成り得た力は、医者にもおよばぬモンマルトルの逆療法環境に頼るところが大きい。1935年、コレクターの未亡人と結婚、晩年は絵ハガキをもとにパリ風景を描きながら裕福な生活を送ったと云われている。

文と写真:奥村森

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