106 テリーとの別居と生活の変化

余り広くない家だったが、テリーが出て行きだだっ広く感じた。毎回フライトから帰ると、家中掃除を一日中する習慣も億劫になりダラダラと一日中過ごした。4~5日するとまたフライトの生活。その頃近所に住む日本人の友人Nさんがフライトの度に空港まで車で送迎してくれるようになった。

ロスに住み始めて10年ちかく、チズちゃんには友達が沢山いた。子供の頃は人見知りで内弁慶だったが、父の仕事での転勤の賜物で、すぐに友達をつくる術を身につけていた。テリーが出て行ってからは近所の人とも付き合い始めた。それまでは挨拶程度だったが話してみると楽しかった。

チズちゃんは一人でアメリカに住むことになっても困らないよう、もっと英語の勉強が必要だと感じた。仕事の第一言語はポルトガル語だが、サービス業務は日本語、英語、スペイン語を乗客によって使い分ける必要があった。

チズちゃんは、フライトから帰るとグレンデールにあるコミュニティーカレッジで英語のクラスをとり始めた。というのも、テリーは日本語を喋りたいので家では何時も日本語を使っていた。チズちゃんは生活に困らない程度の英語はできたが、英語を使う機会があまりなかった。

仕事は全てポルトガル語だった。隣に住むシャーロンやナンシー、それに2軒隣のベッケル夫妻(パピーとビューラ)ともすぐに仲良くなった。久振りの大学生活は楽しかった。アメリカの大学は日本の大学とは違って、同年代の若い人たちばかりだけではなく、様々な年代の人たちが学んでいる。

自分が必要と思えば、何時でも大学に入学できるのがアメリカの素晴らしいシステムだ。隣人のベッケル夫妻も定年後、メキシコ旅行で長期滞在するのでスペイン語を習得していた。それに永住権があると授業料がとても安い。その頃は一科目一学期5ドルだったので気軽に授業を受ける事ができた。三毛猫タヌー

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