15 阪神淡路大震災

      Hanshin Awaji Earthquake disaster 阪神淡路大震災の現場

1995年1月17日午前5時46分、突然ベッドがグルグル回転する感覚、そして振り落されそうな揺れで目を覚ました。一体何が起きたのか判らず、ただベッドにしがみつくだけで精一杯だった。揺れは、もの凄く長いように感じられた。やっと止まった時、初めて地震だと気づいた。

次の瞬間、私のベッドの下で寝ていた犬のドンを思い出した。真っ暗な中、大声で叫んだ「ドーン」。揺れと物の落下の凄まじい音、その後の異常な静けさが不気味な感じだった。暗闇の中でベッドに飛び乗ってきたドンを抱きかかえた。ドンはブルブルと震えていた。次に頭に浮かんだのが二階で寝ている弟のことだった。

崩れ落ちた物で足の踏み場もなく、思うように部屋から出られない。気ばかりが焦り頭が真っ白になるが、僅か3メートルほどの階段下まで随分時間がかかった。階下から大声で弟の名を呼んだ。しかし、返事がまったくない。10回ほど叫んだ時、やっと弟の声がした「大丈夫、生きている」。

脱出してきた弟は仕事に疲れ、こたつに足を入れて寝ていたら2メートル先に置いてあった大型テレビが飛んできて、足を挟まれたので脱出に時間がかかったのだと言う。大きな揺れの後にも次々と余震が続いた。弟は、出口確保のために玄関の戸を開け放した。外は真っ暗で冷たい風が家の中に流れてきた。

玄関にあった厚底のブーツを見つけて直ぐに履いた。そして、ガスの元栓を締めようと台所に向った。台所は割れた食器などが山積、夜明けの光がガラクタをうっすらと照らしていた。元栓を締めようとしたその時、再びグラッと余震が襲った。すると、つけてもいないガスが突然パッと点火した。多分、点火用の種火が衝撃で作動したに違いない。

台所は瓦礫の山で靴を履かないと足を怪我してしまう。床から膝のあたりまで壊れた食器でいっぱい。居間は天井板が剥がれて垂れ下がり、父のビデオコレクションや本が床いっぱいに埋め尽くす。私の寝ていた寝室は、箪笥の上に置いていた洋酒のびんが割れてウイスキーの海、部屋中ウイスキーの香りが充満していた。

実家と同じ敷地内に住んでいるもう1人の弟夫婦の家は、幸運なことに余り被害もなかったが、電気、水、ガスは勿論止まっているので、一応避難場所となっている宝梅中学校に行くことにした。私と2人の弟、義理の妹、それに犬のドンの計4人と1匹で中学校の講堂に行くと、そこには既に家族やペットを連れて避難してきた人々でいっぱいだった。

講堂に入ったがスペースは皆がやっと座れる程度の場所しかなく、横になることなど到底出来なかった。板の間は寒いので弟が家から布団や毛布を車につんで講堂に持ち込み寒さをしのいだ。校庭には、車の中で避難している人も沢山いた。暫らくすると炊き出しが始まり、おにぎりが1人に1個ずつ配られた。慌てて作ったのだろうか、米に芯があってまずかったが、文句を言うものは誰もいなかった。

余震は続きグラッとするだけで、その度にワッーとかキャーとか悲鳴をあげた。でも、家にいて家具などが倒れてくることを考えれば、この冷たい板の間のほうがよっぽど有難かった。一番困ったのは、やはりトイレの問題だった。学校のトイレの数は限られており、水洗便所はすぐ使用不能になってしまったが、知恵の働くひとがプールの水をみつけて、それを利用してバケツで水をトイレに運んでいた。

電話で一番通じたのは公衆電話で、そこには長い列が何時も出来ていた。1995年当時は、今のように携帯電話が普及していなかったので携帯も通じたらしい。今は、ほとんどの人が携帯を使用しているので緊急事態が発生した場合、一斉に皆が通話するとパンクして不通になるのではないかと思う。最近、公衆電話がどんどんと取り除かれているが、緊急時の際にはきっと困るのではないかと危惧する。

夜も明け揺れも少しずつ収まり始めたので、被害の少なかった弟夫婦の家に私と下の弟とドンが身を寄せることになった。電気は震災後4~5時間で復旧したのには驚いた。寒かったのでコタツに入りテレビをつけた。画面にはあちらこちらからモウモウと煙を上げて燃えている神戸が映し出されていた。初めは映画のシーンではないかと目を疑ったが、それが現実だとわかると唖然とした。

燃えさかる長田区周辺、丸ごと倒れた三宮のビル、倒壊した高速道路、そこにぶら下がるバス、全てが破壊されていた。幸いにも私達家族は、誰一人けがもしなかった事は幸いだった。その上、運良く両親は震災の起こる2日前から山形の親戚のところに遊びに行っていたので、水、ガスが復旧するまでの約2ヶ月間、親戚宅に厄介になっていた。水のないときは、1人でも家族が少ない方が楽だ。

トイレは我が家の場合、幸い家に庭があったので皆で話し合い、小便は庭で、大便はたまたま母が風呂のお湯を抜かずにおいてあったので、バケツで1回ずつ運んで使用した。この水は水道が復旧するまでトイレに使用できた。食事は母が買い置きしていたカンズメなどを食べ、煮炊きはカセットコンロを使った。水は貴重なので、皿や器はティッシューペパーやキッチンタオルで拭いた。

水は、近くの中学校に給水車が決まった時間にやって来るので、ポリタンクやパケツに入れて家まで運んだ。重いので家が遠い人やお年よりには、とても苦痛だったと思う。それ以来我が家は、ペットボトルを常時備えることにした。緊急持ち出用バッグの中には懐中電灯、ローソク、マッチ、カンパン、携帯ラジオ(これは大変役に立ちます)、小銭(公衆電話用)、缶きり、下着、三角巾、アルミフォイル(これはお皿のかわりに使える)、ラップ、携帯ナイフなどを入れている。

震災後、トラウマとなって2、3年は何時でも逃げられるように洋服を着て寝ていた。阪神淡路大震災で亡くなった方は6千人以上、毎年1月17日には神戸で慰霊祭が行われている。災害は忘れた頃にやって来る。亡くなった方々の命を無駄にしないためにも私達は何時起こるかわからない地震に備える必要がある。

文:吉田千津子 写真:奥村森

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