ギマランイスからポルトワインの郷、ピニョンを経てカザル・ロイボの「ツリズモ・デ・アビタソン」に着く。ピニョンから6キロ、その家は山のてっぺんにあった。オーナーは、マヌエル・サンパイオ・ピメンテル。彼は、ポルトで車販売会社の役員をしていたが2年前に大事故にあい、その後は仕事をやめて、ここに移り住んだのだという。
「ツリズモ・デ・アビタソン」は2階建、上階はプライベイト住居、1階が共同使用住宅、地下には6室の客室がある。貴族のなれの果てとみえ、1910年にポルトガル王制が廃止された時に広大な土地は全て没収され、残ったのがこの家と少々のブドウ畑だったと言う。
1733年にマヌエルの先祖が住み始めてから、彼で5代目だ。家具は18世紀のもの、ポルトガル軍とイギリス軍が協力してナポレオンを撃退した時に兵士が使ったという分厚い皮製のキャンピング・ベンチ、テーブルの上にはピストル2~3丁が何気なく置いてある。いずれも歴史物で、そこらの博物館より見応えがある。
この地方はドウロ地方と呼ばれ、代表的産業はブドウ栽培。畑で働く人たちのための高カロリー「ぶっ込みシチユー・ランショ」が名物だ。マヌエルの使用人のおばちゃんが私たちのために、わざわざ手料理を作ってくれた。
材料は牛肉、とり肉、豚の耳と足、チョリソ(ソーセージ)、たまねぎ、人参、じゃがいも、スパゲッティー・パスタ、グラン・デ・ビッコ(ひよこ豆)、オリーブ油、塩、コショー、それにピリピリと呼ばれる唐辛子、にんにく。これらの材料を1時間グツグツと煮込んだら出来上がり。労働者の食事なので、ちょっと塩からかったがとても美味しい。
マヌエルは英語が堪能で、英国風辛口ジョークを話すソフィスティケイトなポルトガル貴族といったところだ。博学でおもしろい男だった。彼は、この宿を3人の使用人と一緒にきりもりしている。奥村さんは、ポルトガルにやって来てから言葉が通じず不自由な思いをしていたので、ここぞとばかりに英語で水を得た魚のごとく話しまくる。
10月に入ってからは、毎日雨が降ったり止んだりの天候、今日もまたまた同じ。だが、雲に見え隠れする景色も趣があって悪くない。この「ツリズモ・デ・アビタソン」からは、黄色や赤に染まったブドウ畑が眼下に広がり、白い雲とのコントラストが何とも素晴らしい。
午前中は雨だったが午後になって陽もさし始めた。ラメゴに午後6時30分に到着、ギマランイスから250キロも運転してきた奥村さんはヘトヘトになっている。今日の宿は「アルベガリア・ド・セラード」。午後7時に観光局の人との約束があるので3人とも慌てて身支度をしてロビーに下りたが、一向に現れる気配がない。
40分ほど経過して、私たちが諦めて夕食を食べに行こうとした時、色白の紳士が息を切らせて跳びこんで来た。40分の遅刻だ、ポルトガル人だから仕方ないか「郷に入れば郷に従え」である。彼は、ラメゴ観光局のジョルジ・オゾリオ氏。彼は遅れて来たことを詫び、ロビーにあるバーでジョルジお薦めの1927年物のポルトワインを食前酒としてご馳走してくれた。ほどよい甘さでマイルドな香りが口の中に広がった。
ジョルジは35歳、背が高く、ちょっと気弱そうに見えるが誠実な人だった。夕食は、彼のお気に入りのレストランですることになった。レストランに入るとウェイターたちは常連の彼に愛想よく挨拶をする。ジョルジは大きなえび、イカ、いろいろな魚の入ったおじや風ともパエーリャ風とも言える料理、バカリャウ(たら)、ステーキなどをドンドンと注文する。テーブルに運ばれた料理は、日本だったらゆうに10人前以上の量である。彼は、日本の宴会の席のようにワインを、ちょっと飲むとすぐに「どうぞ、どうぞ」と注ぐ。
アルコールに弱い奥村さんと春子の顔は、みるみるうちにゆでダコのように真っ赤になってゆく。今日でポルトガル生活3週間目。あっさり派の奥村さんは過労とオリーブ油で体調を崩しているが、せっかくのご好意だからと無理やり料理を口に詰め込む。
ジョルジに気づかれないようにと、笑顔を見せながら私に「もう限界、食べ物が口の所まで一杯で気もち悪い」と言いながらも、彼にすまないと必死に食べ続ける。フォアグラの飼育を思い出させる。何処に行ってもポルトガル北部料理の量は半端ではない。
翌日10時の約束をして彼と別れる。その後、奥村さんは這いつくばりながら自分の部屋に戻った。言うまでもなく、その夜、彼は食べ過ぎで七転八倒の苦しみを味わったようである。私はといえば、部屋にカメ虫が現れたのでマクラで追い払ったり、部屋には日本製の暖房器具が備え付けられていたので、洗濯びよりとばかり、夜にもかかわらず洗濯をする元気が残っていた。
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