1946年 素描『鹿踊り家元 照井作之丞翁』

            素描『鹿踊り家元 照井作之丞翁』

素描『鹿踊り家元 照井作之丞翁』は、年代も題名も不詳だった。2021年1月、土牛の四男・勝之がツイッターで相互フォロワーとなった岩手県奥州市の団体『金津流鶴羽衣鹿踊』さんと出会ったことで情報が得られるきっかけとなった。

勝之は、団体は違っても同じ『鹿踊り』の団体なので、問い合わせれば家元・作之丞翁について何かわかるのではないかと考えた。

岩手県に『鹿踊り』団体は幾つかある。『金津流鶴羽衣鹿踊』さんが親切に伝手をたどり探して下さったがわからなかった。それもそのはず、土牛の記した文字が『熊井作之丞翁』と勝之が読み違えていたからだ。『金津流鶴羽衣鹿踊』さんから、「『鹿踊り』は無形文化財に指定されているので岩手県花巻市教育委員会に問い合わせたらどうか」と勧められた。

教育委員会に電話すると二日後、花巻市文化財課 平野克則さんから連絡があり、熊井さんではなく照井さんではないかとのことだった。照井さんだとすれば、今もお孫さんが94歳で健在だという。そのお孫さんの話によると、照井作之丞翁は1952年に亡くなられたそうである。作之丞翁は『獅子踊り』の代表を長いあいだ勤め、多方面に顔の効く存在、東京銀座にも度々訪れていたという。

土牛は「作之丞翁76歳」と素描に記しているから、描いた年は1946年ということになる。戦後間もない時期に土牛が岩手県を訪れたという記録はない。経済的に苦しかった土牛に花巻まで行く余裕はなかったであろう。とすれば、作之丞翁が上京した折に描いた一枚なのではないだろうか。

土牛は横山大観の命により帝国美術院会員(現、日本美術院会員)を1947年(昭和22年)に授賞している。それまでは、一般人には無名の画家だった。作之丞翁が上京してまでも土牛に会うとは考えにくい。とすれば、どういう経緯で出会ったのか、コロナが終息したら、翁のお孫さんの話を直接伺いたいと願っている。

『金津流鶴羽衣鹿踊』さん、花巻市文化財課 平野克則さん、ご協力に感謝致します。

文:奧村森

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