5 ポール・セザンヌ

       Le Mont Saint-Victoire & Atelier of Paul Cezanne
        サン ビクトワール山とセザンヌのアトリエ

セザンヌは1839年、裕福な銀行家の息子として生まれた。中学卒業後、父の強い要望もあって法学校に進んだ。だが、好きな絵画制作や詩づくりも並行して行っていた。父が所有するジャ・ド・ブッファンの広大な屋敷の屋根裏部屋で創作に励んだと言われている。

晩年に建てられたローヴのアトリエからはサント・ヴィクトワール山の素晴らしい景色を見渡すことが出来た。彼は亡くなるまでの数年間、ここで幾何学的な絵画空間の追求に没頭したのである。ピカソ、ブラックなど、キュービズムの画家たちがセザンヌの絵画や詩を敬愛したにもかかわらず、地元での理解は余りにも粗末なものであった。

彼の死後、アトリエは放置され朽ち果てる寸前だったが、幸いにもアメリカのセザンヌ保存委員会によって手厚く補修され辛うじて難を逃れた。しかし、周辺は無計画に建てられた高層マンションによって、セザンヌが愛したサント・ヴィクトワール山の見える風景は今見る影もない。現在、エクスの観光名所となっているセザンヌのローヴのアトリエは小高い丘の上にある。小さな門を潜ると、樹木に覆われた簡素なアトリエがある。

1906年、セザンヌが亡くなった時、そのままにアトリエは保存されている。壁には彼のコートが掛けてあり、イーゼルには描きかけの絵が置かれ主人を待っているように見える。写真撮影を出来るか管理責任者らしき老女史に尋ねてみるが、彼女は私達の話も聞かずに、眉間にしわをよせ「ノン、ノン」と追い出す素振り。その無礼な対応に驚かされた。

これでは、セザンヌが好きな人でも一挙に熱が冷めてしまう。多忙で気が回らないのかも知れないが、文化資産を管理する人は、画家の精神を汲んで心して対応して欲しいものだ。さもないとアメリカ保存委員会の努力も水の泡になってしまうし、ファンを失う結果になりかねない。これではセザンヌも草葉の陰で泣いていることだろう。

文と写真:奥村森

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