145 チズちゃんのお父さん

チズちゃんとお父さんは余り相性が良い方ではなかった。お父さんは大正生まれで、女には学問は要らないという考えだったから大学入試の時は大変だった。香川県に住んでいたので大阪まで試験を受けに行く必要がある。それを知られまいとお母さんとチズちゃんはタッグをくみ、チズちゃんはお父さんに知られないように隠れて関西に向かった。
おとうさんは朝早く出勤して夜は遅いから、その間に出掛ければ大丈夫だと思った。チズちゃんが出掛けた日、夜お父さんが帰宅、チズちゃんがいないのに気づき、お母さんに尋ねた。お母さんは「あっ、ちょっと旅行に行ったのよ」とうまく切り抜けてくれたので、見つからずに助かった。
数日してチズちゃんが帰宅した。何週間かして大学から入学合格通知が届いた。これはもう隠す訳にはゆかない。入学金などを払ってもらう必要がある。そこでお母さんは遂に本当のことを話すことにした。お母さんは「合格したのだから行かせてやりましょうよ」とお父さんを説得してくれた結果、やっと大学入学を許されたのだった。
チズちゃんが大学一年に入学して数カ月だった頃、お父さんがブラジルに出向になった。チズちゃんは渡りに舟とばかり、せっかく入学した大学を辞めてブラジルに行こうと企てたがお父さんの「学校を終わらせてからでないと来るな」との鶴の一声で、あえなくブラジル渡航の夢は潰された。
お父さんとチズちゃんが話すと何時も口論に発展した。お父さんの考えは基本的にネガティブで女は自分の考えを持って発言するべきではないと考えていたような気がする。チズちゃんが何か発言すると何時も「世の中はお前の考えているようなものではない」と一喝された。
でも、チズちゃんがテリーと離婚をすると知らせた時には、お父さんは電話口で「今すぐ、ロサンゼルスに行くから」と動転していた。もちろん日本とアメリカだから、今直ぐと言っても10時間以上はかかってしまうし、近所というわけではないのでチズちゃんは「そんなことしなくても大丈夫だから」と断った。
こんなこともあった。チズちゃんが離婚調停中に心配してか、卒論のような長い手紙がお父さんから届いた。細かい字でびっしりと便箋に書いてある。それでさえ、気の滅入る毎日なのに長文の手紙を読む気にもならない。案の定ネガティブな世の中はお前の考えているようなものではないとの手紙。元気になるどころか益々気がめいってしまった。そこでチズちゃんはお母さんにお願いして、もう手紙を書かないでと言ってもらった。この手紙が後にも先にもチズちゃんがお父さんから貰った初めての手紙だった。
日本の経済成長時代の真只中を生きていたエコノミック・アニマルのお父さんは、夜はチズちゃんや弟たちが寝た後に帰宅、学校に行く頃には出勤していたから、子供の頃は母子家庭のようだった。朝ごはんはもとより、夕食も数えるほどしか一緒に食べた記憶がない。たまにお父さんが家にいると、何か居心地の悪い不思議な感じがした。
お父さんは新し物好きで、何時も家族を驚かせた。特に電化製品が好きで何か新発売されると、すぐに家人には何も言わずに買った。記憶にあるのは、日本で初めてリールのテープレコーダーが発売された時には、早速購入して家族皆の声を吹き込んだ。
ある時は突然電気屋さんがやって来て電気冷蔵庫が届いたこともあった。それまでは氷を入れる冷蔵庫を使っていて、その溶けた水が冷蔵庫の下のパンに水が溜まるようになっていた。忘れてしまうと台所の床がビシャビシャになり、しょっちゅう困っていた。忘れんぼうの、お母さんはとても喜んだ。でも、注文もしていない冷蔵庫が運ばれてきた時は、ちょっと驚いていた。すぐに、お父さんの仕業だと分かったのだが。
お父さんは買い物好きで、特にチズちゃんの洋服を見立てるのが好きだった。チズちゃんの子供の頃は既製服があまりなく、洋服はすべてお母さんの手作りだった。それでお父さんはチズちゃんに似合いそうな生地を何時も買ってくれた。お母さんはどちらかというとショッピングは余りすきではなく、山に登ったり、山菜取りをしたりするのが趣味だった。
お父さんとの思い出は悪いことばかりではない。チズちゃんが5,6歳のころの忘れられない思い出がある。夜道をお父さんと手をつなぎ、大きな声で歌いながら歩くことだった。お父さんは、とても歌が上手で小学校の時には全校生徒の前で独唱したというのが自慢で何時も子供達はそれを聞かされていた。
お父さんと一緒に歌ったのは2曲あり、一つは「私は兎と申す者、前足短く後足長く、飛んで跳ねるのは誰より上手、みなさん、はやして下さいな」というカワイイ、兎の歌である。二つ目は「春咲く花は春になるとニコニコ、夏咲く花は夏になるとニコニコ、秋咲く花は秋になるとニコニコ、冬咲く花は冬になるとニコニコ」という歌だ。
お父さんが歌っていた曲は、ほかで聞いた事がない。単純な曲だったが子供にも覚えやすく気に入って、よく歌っていた。お父さんが自作したものなのか、それともこのような歌があったのかは定かではないが、半世紀以上も経った今でも心に焼きついている。
お父さんは86歳で亡くなったが、その当時チズちゃんはもう帰国して東京に住んでいた。弟達は葬式などで忙しくしていたので相続や事務的なことをチズちゃんがすることになった。葬式も無事終わり東京に帰った夜、夢にお父さんが現れた。
夢の中でお父さんは武士のように座り、ぎょうぎょうしく挨拶をした。「今日は色々を世話になった、ありがとう」と言った。その時のお父さんの姿が昔のアルバムに写っていた若々しい大学生姿で角帽をかぶり、白い開襟シャツと黒のズボン姿だった。臨終の時にチズちゃんが間に合わなかったので、きっとお礼と別れの挨拶に来たのだろうと思った。三毛猫タヌー
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