77 日系アメリカ人の歴史

ここでニシオ夫妻の人生について語ることにする。ドイツのユダヤ人迫害についてはよく知られているが、第二次世界大戦の時に日系アメリカ人が有刺鉄線で囲まれた強制収容所に収監されていた事実は余り知られていない。ニシオ・エスター&シグ夫妻はそれを経験した。

1941年12月7日、ハワイ真珠湾のアメリカ海軍基地を日本軍が奇襲攻撃。1942年、大統領の命により西海岸に住む全ての日系アメリカ人は、アラスカを含むワシントン州、オレゴン州、カルフォルニア州から立ち退きを命ぜられた。彼等は全財産を没収され強制収容所に収監された。

強制収容所は全米に10カ所あり、12万人の日系人が1942年から1945年まで、そこで暮らす事となる。当時エスターは17歳、コロラド州の収容所に両親と一緒に収監されていた。吹きさらしの平野に建つバラックの冬は寒く、すき間風が容赦なく入り込んだ。

収容所の周りには8つの監視塔があり、夜間散歩で外に出ると投光照明に照らされた。そして戦争が終わりに近づいた1944年、エスターの両親のもとに戦前からの友人アンダーソンという人物がやってきた。彼は日系アメリカ人を援助するために以前から尽力していた熱心なクエーカー教徒だった。

彼の訪問の意図は、次のようなことだった。連邦政府がアンダ-ソンに日系アメリカ人を南カルフォルニアに戻し、大学に入学させることを許可したのである。これは日系人すべての再定住のテストケースであり、19歳のエスターが候補者として最適な人物としてアンダーソンは白羽の矢を立てた。

こうしてエスターは、南カルフォルニア・パサディナに一人で戻り、日系アメリカ人学生第一号となった。彼女が反日運動激しい中、アメリカ社会に受け入れられるかどうかは、同時にカルフォルニアに住む日系人が我が家に戻れるかどうかということを意味していた。

カルフォルニアに住む日系人が我が家に戻れるかどうかということは、エスターの肩に全てかかっていた。ローカル紙にエスターの歓迎レセプションの記事が掲載されると超愛国者団体がエスターの帰還に抗議、そして母親達は日本人が学校に戻ってくることに反対した。

エスターは一躍時の人となったが、依然として反日運動は続き日系人は「ジャップ」と呼ばれた。一方、地元民のジョージ・ケリーは”ジャップ禁止令”のリーダーとなり、パサディナ教育委員会としてデモをして日系人擁護をした。日系人にとって、この時期は辛い時期だったとエスターは回想していた。

アメリカでの日系人の歴史は決して平坦なものではなかった。米政府は収容所の日系人に米国への忠誠と日本への忠誠拒否を尋問する調査なども実施した。ちなみにアメリカにとって第二次世界大戦において敵性外国人のドイツ系、イタリア系の人達に対して強制収容は行われていない。

1988年、ついにアメリカ政府が日系人に謝罪し補償を認めた。強制収容所は合衆国憲法を侵害し、人権を無視していたという主張がやっと40年以上もたって世論の支持を得たことになる。2010年6月、パザディナ・シティー・カレッジで1942年組の卒業式が行われエスターは学長から名誉学位を送られた。三毛猫タヌー

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